八幡山城(はちまんやまじょう)

所 在 地  西牟婁郡白浜町矢田
標   高  75m
比   高  70m
築 城 者  安宅河内守
築 城 年  享禄年間(1528年〜1531年)
  式  山城
遺   構  曲輪 土塁 石垣 堀切 横掘   
登城時間  15分
 

歴 史

 八幡山城は安宅本城から北方約500mに位置し、平地の居館(安宅本城)に対しての詰城であったと思われる。
「安宅一乱記」によると安宅氏12代当主実俊の子安定丸と叔父治部大夫定俊の家督争いが勃発し、定俊側がこの城に拠ったが敗れ定俊は自刃したと記されている。
 城跡は残存する遺構から、天正13年(1585年)の羽柴秀吉による南征時に改修され、発掘調査により主曲輪や二ノ曲輪から水甕の破片が大量に採取されたことから、南征後は安宅本城を廃しこの城に集約されたと考えられる。


   

現 状

 八幡山城は日置川河口部より約3km上流の白浜町矢田地区にあり、西側は日置川が流れ、当時東側は湿地帯を利用した要害堅固な山城である。
 城跡は東西32m、南北30mの主曲輪が山頂にあり、曲輪周辺には2mを超える大土塁で囲まれ、主曲輪と北側尾根との間に巨大堀切により遮断されている。
 主曲輪西側に東西60m、南北10m程のL字型をした二ノ曲輪あり、土塁内側を石垣で補強されて、投石に用いる大量の河原石が残されている。
 
八幡山城は平成14年〜15年にかけて発掘調査が行われ、土師器(はじき)、輸入陶磁器、国産陶器、鉄製品、富本銭が発見された。中でも富本銭は室町時代に奈良時代のものを真似して作った「模鋳銭」であり、他に例がないものであった。
 八幡山城は投入された土木規模や遺構の保存状況、優れた縄張りなどから、見所豊富な城跡である。
 なお
主曲輪には安宅治部大夫定俊を供養するため「治部大明神」の祠があり、毎年一度お祭りが行われている。
 

写 真

                                 
登城口 主曲輪
主曲輪土塁 山道石積
二ノ曲輪 二ノ曲輪土塁と石積
二ノ曲輪虎口 二ノ曲輪石垣
主曲輪切岸
横堀 横堀
二ノ曲輪土塁石積 北側尾根堀切
北側尾根堀切 投石用の川原石
主曲輪にある祠 案内板



経 路

                                                   

                               

地 図




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